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dai さんの日記
2025
7月
26
(土)
00:56
本文
ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』、日本語版は早川書房から出ているので、SFかと思いきや、『向日葵の咲かない夏』もびっくりの叙述トリックミステリである(ネタバレ御免!)
主人公のアルジャーノン(注1)の一人称で物語は進むが、語り手の正体は実は実験動物のネズミで、ラストですべての出来事は研究室の檻の中だったことが明かされる(ウソばれスマソ!)
ラストシーンで件のネズミは、「アイルビーバック」と親指を立てながら溶鉱炉に沈んでゆく。
涙なしにこのシーンを読むことはできないだろう(ウソジャーノンコンタミ失礼!)
主人公のネズミはチーズ工場に潜入し「パルミジャーノレッジャーノあるじゃねーの」と歓喜し、「ペコリーノないじゃねーの」と落胆する。相棒のチャーリーはチョコレート工場で真実に目覚める。
『アルジャーノンに花束を』は、中高生の課題図書になる名作であるが、上記のような「アルジャーノン大喜利祭り」になっている状況ゆえ、読書感想文をAIに書かせるのは非常に危険である。
感想文は自分で本を読んで、自分で書くべきである。
生成AIに感想文を書かせて先生に怒られるまでがセットである。(先生がアルジャーノンを読んだことが無ければワンチャン…(悪い顔をしながら)
ところで、表現の自由と言えば、女の子を馬に見立てて競争させるゲームが流行っているらしい。とある護憲派の憲法学者が、ああいうのは禁止すべきだと述べていたとかいないとか。
自分の気に入らない表現の自由は憲法で守られる人権の埒外で、自分の気に入った表現のみが法益として保護されるというのだろうか。
基本的人権の尊重、国民主権、平和主義が憲法の価値である。9条以外は憲法でないみたいな自称、「護憲派」学者は、恥ずかしいので法学者を名乗らないでいただきたい(意見、論評です)。
それでは、授業の時間だ。
『アルジャーノンに花束を』は、知恵を付けることは本当に幸せなのか、という問いを投げてくるのだけれど、それでもやはり、知を蔑ろにするべきではない。
そもそも、知ることは愉しい。それがたとえ禁断の果実であり、猫をも殺すようなものだとしてもだ。
ただ、知は平面的に学んでも身につかない。理論と実践、原理原則と現実が結びついてこそ、活かせるものである。
たとえばどこかへ出かけた時、道中の車窓から見えるものに関心を示すか示さないかで知識の量は全然違ってくる。同じものを同じように見ていても、同じ授業を同じ教室で聞いていても、身につく知恵の量は人によって雲泥の差があるのである。
川に遊びに行ったとしよう。川は岸から離れると急に深くなる。曲がっている川の外と内では深さが違う。小学校4年生くらいの理科の教科書に載っていることだろうが、水辺で遊んでいて、どこから深くなっているのか気を配ることができるだろうか。それがわからないのであれば、くるぶしより深いところにはいかないことである。どうしても行きたければ、ライフジャケットを着用すべきである。
川べりから感じられる水の深さは、光の屈折の都合で、実際よりも浅く感じられる。しかも目線が水面に近ければ近いほど、この傾向は強くなる。大人よりも子供のほうが、深くなっていることに気づきにくいのである。
それでは今日はこのへんで。
注1:「主人公のアルジャーノン」とか言っている時点で、間違いなく原作を読んでいない。
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