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ぼびん さんの日記
2017
12月
7
(木)
20:42
本文
トップは公立志望の生徒が多いですから短文や記述、簡単な作文は小学生や中1からでもやるのですが、中3の2学期から「小論文・作文対策」が本格化します。
ただ書くだけではなく問題の意図を捉えたり、様々な観点を養うために「作文」というのは非常に有用なのです。国語の点数が伸びない、悪い、という人は作文し添削をしてもらうことを繰り返すことで力がついていきます。
前回のブログで、生徒と「美」について話す機会があったと書きました。
普段からそんなことを!?なんて思う方もいるかもしれませんが、残念ながらそんなことはありません。作文の問題の一つに出てきたんですね。
問題自体は簡単なものです。
(問題) これまでに、美しいと感じた情景や出来事について書きなさい。
ね?別に何も難しくない問題でしょ?件の生徒はどう書いたのか。
ザックリと骨子を書きます。
・私は父と伊吹山に登ることがあった。
・そこでは林業に従事されている人たちの営みがあり、きれいに管理するための努力、苦労を目の当たりにした。
・その情景を美しいと思った。
・だから、美しいものには必ず人々の苦労、努力があるものなのだ。
かなり端折ってはいますが、文の骨子はこのような感じです。
さて、どこがおかしいのかわかりますか?
さらっと読んでしっかりと指摘できる人は読解力がある人です。分からない人は読解力の無い人ですね。
注目すべきは因果関係を表す接続詞の「だから」です。
トップの生徒は勿論分かりますよね??(笑)
その時に
「美とは何か。」
「絶対的な美はあるのか。」
それとも
「美とは相対的なものなのか。」
こんなことを話しました。
当然、答えなどありません。「考えること」こそが大事なのです。
ある一つの対象についてアレコレ考えるわけなのですが、別に私が言っていることが正しいことでもないんですよ。もしかしたら生徒の言っていることが正しいかもしれませんし、はたまた二人とも間違っているかもしれません。
“友達ってなに??”
“なんで勉強しないといけないの??”
“幸せってなに??”
“人間いつか死ぬのに頑張って生きる必要はあるの??”
これらはすべて子どもたちから聞かれた質問の一部です。
皆さん答えられますか?
多様化した社会において“正解”があることの方が珍しいのです。ただ、自分なりの意見、考え方を持ってほしい。自分なりの価値観というものを構築してほしいのです。なぜなら、それが将来生き抜く上での指針になるから。
この価値観は放っておいて育つものではなかなかありません。また、一朝一夕にできるものでもないですし、年齢や時節によっても変わるでしょう。
多様な価値観に触れ、様々な主義主張と接点を持ち、あーだこーだ言いながら肯定しながら批判しながら磨かれて自分なりの価値観というものができていく、私はこう考えます。もちろん反論もあるでしょう。しかし、それすらも「みんなちがってみんないい」(金子みすゞ)なのです。
考えることをやめてしまったらそこで人間は停滞してしまいます。では、どう考えたらよいのか。それは、自分が信じている一般に知識・常識と呼ばれているものを疑って疑って疑いつくすのです。
近代批評を確立した小林秀雄も似たようなことを言っています。
与えられた対象を、批評精神は、まず破壊することから始める。よろしい、対象は消えた。しかし自分は何かの立場に立って対象を破壊したに過ぎなかったのではあるまいか、と批評してみたまえ。今度はその立場を破壊したくなるだろう。立場が消える。かようにして批評精神の赴くところ、消えないものはないと悟るだろう。
そして、ルネ・デカルトの「方法的懐疑」。
こう考えてゆくと、何ひとつ確実なことは残らないように見える。しかし、まさにそのように疑っている自分が存在すること、これは決して否定できない。
疑って疑って疑いつくすものの、考える「我」が存在するだけは疑いえない。
そう、すなわち「コギト・エルゴ・スム」。つまり、デカルトが唱えた「我思う、故に我あり」なのですね。
あーまたもや脱線してもうたー。(笑)
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