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ぼびん さんの日記

 
2015
6月 18
(木)
20:27
要領よくやれ その2
本文


http://www.studio-puchi.com/top/modules/weblogD3/details.php?blog_id=837

前回の続きになります。
その2を書いておったのですが、先日のGH校でTKY通信を読んだ中1の女の子が、「フランス現代思想」という単語に食いついていたのをみて、急遽、書き換え笑


今回、話すのは、クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss)です。構造主義の祖とも呼ばれる現代思想家。フランス語の名前を見てもらうと、リーバイス?ジーパン??なんて思ってしまいますが、全く関係はありません笑


レヴィ=ストロースは、その著書『野生の思考』の中で、限定された資源のうちで生活している、そのありようを「ブリコルール」と呼びました。ちなみに、『野生の思考』は戦後、フランスのみならず世界の知的世界に君臨していたサルトルの実存主義を突き崩したすんごい書物です。笑


まあ、そんな話はおいておいて。そこらへんにある、元々あるものを使ってものを作ることをブリコラージュといい、そういうことをする人をブリコルールというのです。


野生の人々は、(原始人などを想像してもらえたらわかりやすいかな?)本質的にブリコルールです。そこらへんにある、木とか石とかを使って何とかするしかないのですから。それゆえ、ブリコルールは「もの」の汎用性、それが蔵している潜在可能性につよい関心があるのです。(たとえば、この石は、「いつか」ナイフになるかも知れない。「もしかしたら」トンカチや矢じりになるかもしれない。ってな具合ですね。)



レヴィ=ストロースはこう書いています。
ブリコルールの「ゲームの規則は『手持ちの手段』でなんとかやりくりするということ。」
「ブリコルールの持ち物は何らかの計画によっては定められたものではない。」
「彼らの道具や資材は『こんなものでも何かの役に立つことがあるかもしれない』の原理に基づいて収集され保存されているのである。」
(クロード・レヴィ=ストロース 『野生の思考』より)



どうしてレヴィ=ストロースの「こんな話」を持ってきたのかわからないでしょう笑
今にわかります。もうしばらくお待ちを。笑




ブリコルールが歩いていると目の前にさまざまな「モノ」が出現する。甘そうな形の果実、とがった石、柔らかそうな木の皮・もちろん現代ならば人工物も・・・そのようなものを前にしたときにブリコルールはふと立ち止まります。
そして、「いつか、何かの役に立つかもしれない」と思い、取っておくのです。


なぜ、それが「いつか役に立つ」とわかるのでしょうか?


身の周りの中には「いつか役に立つかもしれないもの」が無数にあったはずです。(石なんかそこらじゅうに転がっています。)

どうして、今は素性のしれぬ無数のものから、それを選びだし、取っておいたのか?

きっと今までに「ああ、取っておけばよかった。」「ああしておけばよかった。」という経験が何度もあったのでしょう。

そういう経験の繰り返していくうちに、「とりあえず今はその用途や将来性がわからない」が、必要になるだろうという洞察力・直観を涵養したのでしょう。

すなわち、ブリコルールたちは「洞察力・直観」のたいせつさを教えてくれているのです。


学校ではもちろん社会に出ると、わからないこと、先行きが不透明なこと、危機的な状況は多々あります。そして、その一個一個に決断を下していくわけです。



もしかしたら、
銀行に行ったらいきなり銀行強盗にあうかもしれない。
突発的に地震がおきるかもしれない。
隠していたテストがお母さんにバレルかもしれない。笑

本当に危機的な状況に対して「こういうときはこうふるまいなさい」ということは決まっていません。
「どうするのか」についての指針が示されない状況なのです。
けれども、どうにかして、それを生き延びなければならない。

そのためには、「清水の舞台から飛び降りる」ような決断をしなければいけません。ですが、あんなところからむやみやたらに飛び降りたらもちろん死んでしまうでしょう。(余談ですが、「清水寺成就院日記」によると、江戸時代に実際に飛び降りた人がおりまして、全部で234人。死亡者は34人で生存率は約85%。案外高いのです。でも、よい子は決して真似をしないよーに!)


えい、や!っと「清水の舞台から飛び降り」生きるためには、安全そうな「セーフティネットが張ってある場所」めざして飛び降りなければなりません。
もちろん、舞台の上からはセーフティネットは見えません。
見えないけれど、見当をつけて「このへん」と飛び降りることのできる人間だけが、生き延びることができるのです。


あまりに豊かで安全な社会に暮らしているために「洞察力・直観力」の重要性を、忘れていないでしょうか。

私たち全員にそのような能力はたしかに潜在しています。
そのことを知っているか、それを開発する努力をしているかいないか、その違いがあるだけです。


「学び」は、それを学ぶことの意味や実用性について何も知らない状態で、にもかかわらず「これを学ぶことが、いつか私に重要な役割を果たすだろう」と先に確信することから始まります。


「要領よくやれ」と言われる子どもたちが学ぶ力を失っているのは、彼らの「洞察力・直観力」が弱っているからです。

学ぶ前の段階で、学び終えたときに得られるメリット・デメリットについての情報開示を要求する保護者・子どもたち(「勉強するとどんないいことがあるんですか?」と訊く「賢い消費者」的な子どもたちは、この「洞察力・直観力」というものがあることを知らないのでしょう。


昔から受け継がれた言葉は、歴史の重みに耐えてきた強さがあります。「読書百遍意自ずから通じる」のような言葉が今に生きるのもその証左でしょう。
わからないなりに試行錯誤して、自分で成すこと。その試行錯誤が大事なのに、「要領よくやれ」という言葉はそれを認めません。


自分に有用な知識や情報だけを得て、無関係なものには見向きもしない。おそらく本人(及び「要領よくやれ」口出しをする保護者)は効率の良い、費用対効果の高い学び方をしていると思っているのでしょう。しかし、このことにより「洞察力・直観力」は失われ、貧相な教養をもつのみとなってしまいます。不毛な土地に木々は育ちません。いわんや実などならないでしょう。肥沃な土地(教養、知識)に「努力」という水を与えてこそ大樹は存在しうるのです。安易に「要領よく」などと申さないでほしいところです。






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