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ぼびん さんの日記
2017
12月
6
(水)
22:12
本文
ここ数日、とても綺麗な夜空で、見上げていると癒されます。
とある生徒にも“美しい夜空に心惹かれました。”と言われその質朴な、楚々とした表現に私も心惹かれました。(笑)
特に月がきれいだったので不思議に思っていましたが、なるほど12月4日はスーパームーンだったんですね。道理できれいだったはず。あとから知りました。
天体関連のニュースはその時は話題になりますが、すぐに忘れ去られますよね。
いつもこれが残念でならない。
一般的に日本人は熱しやすく冷めやすいですよね・・・。
徒然草の137段に次のような文章が出てきます。
花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ、見るものかは。
平安時代以降は 花=桜 ちなみにそれ以前は花=梅 です。間違えなきよう。
隈なき、というのは「隈」=暗いところがない、ですから満月と読み替えてくれても良いでしょう。
最後の「か」は係助詞ですから「疑問反語」の意味を持ち今回は文脈上「反語」
になります。
ですから、訳としては
(桜の)花は真っ盛りなものを、月はかげりなく輝いているものだけを見るものだろうか。いや、そうではない。
とこのようになります。
続いて、
雨に対(むか)ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛(ゆくえ)知らぬも 、なほ、あはれに情(なさけ)深し。
咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ、見所多けれ。
なほ=やはり は覚えるべき古文単語ですね。
「ぬ〜べし」は「まさに〜しそう」
訳は
雨に向かって(見えない)月を恋しく思い、簾を垂らした部屋で春の過ぎゆくのを知らないでいるのも、やはりしみじみと感じられて趣が深い。
今にも咲きそうな梢、花が散ってしおれている庭などにこそ見どころがたくさんある。
とこうなります。
美の基準は千差万別。とはいえ、花が散りしおれている庭などを美しいと感じる人は多くはないでしょう。(笑)
古来より最高の美として称揚されてきたされてきた、満開の桜、満月の夜。
それらに対し仏教的無常観を下敷きに退廃的な美、不完全な美を(挑戦的にと言っても過言ではないでしょう)述べているのです。
兼好法師の意図をとらえるならば、
目に見えるもの、直接的に表現されるもの、それにより美醜を判断していてはならないのだ、と。
物から見える直接的な刺激により判断する、ということは目に見えるものしか楽しめない立場であり、目に見えないものを楽しめないのですから、それは「あわれ」や「趣き深い」という立場とは似て非なるもの。田舎者のやることなのです。
雨に隠れて見えない月。
今にも咲きそうな花や散り枯れた花。
満開の桜や澄んだ夜空の月は格別だけれども、それだけではないですよと皮肉たっぷりに言われているのが想像できます。(笑)
つまり、表象的なものの見方考え方ではその深層的な部分、その深奥を見落としてしまいます。その裏にあるものその奥に隠れているものを見出すことも大切なのです。
そう、彼や彼女が成績良いのには「隠れた努力」があるのです、なんてね。(笑)
そういえば先日は生徒と「美」について話しました。
日本的な美といえば真っ先に上がるのが「雪月花(せつげつか)」でしょうか。
やまと言葉で「つきゆきはな」というのも粋なもんです。
次回は、こちらについて書きましょうかね。(次回予告をしておかないと更新が滞りそう・・(笑))
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